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其の一 【ブレーメン紙しばい隊】全十五話

プロローグ

3月頭に母の余命が一週間という連絡を受け3月3日にハワイ州マウイ島から日本へ帰国した。入院先の母は至って元気で拍子抜けしたが彼女の肺は既に末期状態だった。沢山の話をし、沢山スキンシップをするため殆どの時間を病院で過ごした。雲ひとつない快晴の日、母と一緒に病院の屋上にあがり、澄み渡った日本晴れに浮き立つ富士山を見た。
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彼女は富士山に向かって「うわぁすごい。おーい、おーい」と精一杯のかすれた声で叫び、車椅子を押すぼくに「聞こえたかな?聞こえたかな?いい冥土の土産だ」とぽつりと言った。
僕は「もちろん聞こえているよ」と言葉を返し溢れる涙が彼女に悟られないように押し黙った。

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3月8日の仕事に間に合わせるため雪の降る東京からマウイに戻り、ハワイ時間3月10日3055mのハレアカラ山頂で夕日を拝んだ。

その日は下山せずに標高2000mにある真っ暗なキャンプ場に戻ると携帯がけたたましく鳴った。妻からだ。
「日本は地震ですごいことになっているの。マウイにも津波が来るからあなたはそこにいなさい。私たちは高台にある友人宅へ避難するから」そういって電話が切れた。

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次の日キャンプ場から再び頂上へ戻り朝日を拝んだ。日本の被害が最小限で済むこと、マウイの皆が無事でいることを祈るが、正直実感が湧かず半信半疑の気持ちのまま山を降りた。
カフルイの町まで来たとき道路から海の匂いがした。地震発生から8時間後にここへも津波が来たのだ。汚泥の処理がちょうど終わったばかりのハナ・ハイウェイの交差点を曲がりキヘイの町へ向かって車を走らせた。
サウス・キヘイロードがクローズドされていたが家族も家も無事だった。東京の実家に連絡を入れ日本にいる家族全員の無事も確認できた。

テレビでは24時間、日本の震災の映像が流れていたが、大震災や津波災害は対岸の火事のようにしか感じていなかった。そんな中、返事の来ない母にメールを打ち続ける空しい日々が続き、このまま何もしなくても奇跡が起こり母も日本も元通りになるのではないかという現実逃避的で楽観的な気持ちにさえ成りかけて来たハワイ時間の3月19日のことだった。昨晩から喉が痛く食べたものを全部戻し、当日は一日中下痢が続く中、ようやく一仕事終えた午後6時に弟から国際電話が入った。
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日本時間3月20日、朝10時45分。スーパームーンという月が最も地球に近いときに母が息を引き取ったことを聞いた。

仕事もあったし、災害時の日本に帰るべきか帰らぬべきか考えた。
通夜には間に合わないが、葬式には間に合うチケットが取れることが分かり、それは「この時期の日本に戻って来い」という母からのメッセージだと強く感じた。

23日の午後、カフルイ空港からホノルルを経由し羽田行きのJALに乗り込もうとしたとき、コクピットから日本人機長が手を振っていた。よくみると窓に“がんばれ東北”と書いてあり、じわじわ涙が溢れた。
「オレも祖国のため、東北に行って必ずボランティアをする」そう硬く硬くこころに誓う。

24日の深夜に羽田上空で見た夜の東京を僕は決して忘れることはないだろう。なぜなら街が死んだように暗かったからだ。環八を北上し練馬の実家へ向かう途中も道路は暗く車も殆ど走っていない。やはりCNNニュースで見たおぞましいあの光景は現実なのだとようやく実感が湧いてきた。

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25日、葬式の朝である。お棺の中を恐々覗き、綺麗に死化粧された冷たい母の頬をなでながら本当に死んだのだと実感する。不思議に涙は流れない。闘病の苦しみから解放された喜びのほうが大きかったのかもしれない。
本当に安心した顔で眠っていたから・・・・

火葬場に行くと東日本大震災で亡くなった方々を火葬する場所が足りないらしく、それはこの斎場まで来ていた。だから母は通常より強い火力で短い時間に焼かれ釜から出てきたとき、それでもお骨は原形をとどめていたのは病気以外の場所はいたって健康だったからであろう。晩年「もう一度だけマウイに行きたい」と願っていた彼女の意思を叶えるため分骨用の小さな骨壷にその骨を自分自身で入れた。
死に目には会えなかったけれど葬式には参列できたこと、特に父や僕の代わりに立派に喪主を務めてくれた次男と母の最期を看取ってくれた三男の家族全員に本当に感謝した。

次の日から本格的に災害ボランティアへ向けて地区を絞ることを始めた。帰国前にネットで調べているときと状況はあまり変わらず他県からのボランティアはどこも受け入れてはいなかったので、いくつかのご縁を当たることにした。
先ず福島にいる友人にメールをすると、会津若松に居る彼女は「ここは被害が少なくて、来てもらうほど状況は悪くないので他に行ってあげて」という返事が来た。
仙台に家族がいる友人が3人いたが、そのうち二人は自分で物資を運ぶ程度で間に合っているからと言われ、残る一人の返事を待った。

彼女の返事は、自分は行けないが仙台に父親と弟、陸前高田に母方の叔父叔母がいるので是非行ってほしいという返事だった。

そんな中、葉山の海の傍に住む以前大変お世話になったおばさんからメールがきた。「是非会いたい」というので行ってみた。そのとき葉山のライフセービングクラブ主宰のトモちゃんからも連絡があり「クラブで集めたお金と支援物資を輸送するので一緒に行きませんか?」と誘われた。願ってもないチャンスなので「是非お願いします」と便乗したが、彼女もどこへ向かってそれらを運べばいいのか決められていなかった。

せっかく葉山に来たので、震災に遭われた方々の復興とボランティアの安全を森戸神社に祈願することにした。

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夕暮れの葉山の海にほら貝を吹いてこういった。
「愛する海よ、これ以上の被害を増やさないように、どうか鎮まりたまえ!」

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テーマ : 東北地方太平洋沖地震義援金、災害援助
ジャンル : 福祉・ボランティア

 其の二 【ブレーメン紙しばい隊】

母を失ったダメージは僕も人の子なので正直きつかった。それ以上のダメージがある父の様子を恐々探りながらもボランティアへ向かう意志は揺るがなかった。
昔お世話になった日能研の高木会長が代表となって、アウトドア用品 MontBell が始めたボランティアに志願したが、丁寧なお返事を頂いただけで先には進まず、ピース・ボートやてんつくマンや地元教会の団体に所属することも考えたが、いまいちピンと来なかった。
「僕がすべきことって何だろう?」
そんなことは簡単に見つけられるとは思っていなかったし、現地のニーズにマッチしたことを知る由もなく、なかば諦めかけたそのとき「そうだ子どもたちに紙しばいを読もう。駄菓子を仕入れて老人たちにも楽しんでもらおう」と突然閃いた。

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その直後、仙台と陸前高田に親戚が居るジャスミンから連絡が入った。
「やっぱりわたし行きます」
目的地が決まった瞬間である。

しかし葉山のトモちゃんが運転する軽自動車のワンボックスに支援物資と大人3人が乗って、道路の悪い被災地へ行けるとは思わなかったので、ダメ元で長野のひでさんに連絡してみたところ彼も僕なら何をするだろうと正に連絡を取ろうとしていたのだ。これでハイエースのバンが出動できることになり2台で余裕をもって行動できることになった。

ところがこの時点でマウイ-日本の2往復、寝ずの看病、自然ガイド、葬式、ひどい花粉症で僕は気力の限界に来ていた。知人の家に呼ばれた際、失礼にも床暖房の上で10時間以上も寝てしまったのだ。しかしこのおかげで気力、体力はある程度復活した。

うつらうつらしているとき一本の電話が鳴った。ミュージシャンのコウタロウからだった。「オレ、車の免許も無いし、力もないし、ボランティアに行ったって何の役にも立たないと思うけど連れて行ってください」という。
助けたい気持ちだけで来るボランティアは、現地で歓迎されていないことを聞かされていたので彼に、「寝泊りできる用意と3日間の食料を自分で用意できることが最低条件だ。現地に行っても受け入れてもらえない可能性があり、その際は何もせずにただ引き返してくる。最後に僕をリーダーとして受け入れられるなら改めて連絡してきて」と言って電話を切った。

彼は35分間で結論を出した。

あーこれで5人になったのか・・・

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 其の三 【ブレーメン紙しばい隊】

4月5日(火)朝9時に練馬の大泉学園に集合した。先ず長野を6時頃に出発したひでさんが9時前に到着。早速バンの中を見てビックリ。これでは葉山からの荷物は乗りそうもないし、5人乗れるスペースすら作れそうにない。実は昨年僕がキルギスタンで開催された民族ミーティングに参加した際、現地の子ども達に差し上げる日本からの贈り物を彼も募集してくれ、沢山集まりすぎて送れなかった残りもあるそうだ。心のこもった贈り物は捨てるわけにもいかずこのときとばかりに持ってきたという。
そうこうしている内に千葉からコウタロウが来て、最後にトモちゃんの運転する軽ワンボックスでジャスミンと満載された物資が到着した。

腕を組んで考えてしまった。なるほど現地では物資をなんでもかんでも闇雲に送って来るのを拒むのはこういうことだったのか、まとまりがなく受け手も決まっていない物資は管理しきれないし、ともすれば新品でもただのゴミになるかも知れない。

もうひとつは二台で行くことに不安を感じていた。「物資の量よりもボランティアの安全管理を優先しよう」そう決断した。出発は遅れてしまうが両方のバンから物資を全て出し、いらない物は置いてゆくことにして、優先順位をつけ、ハイエースのバンに詰めなおした。これで何があるのか大体把握も出来た。驚いたことに、ハイルーフ仕様とはいえ、ハイエースに殆どのものが入ってしまった。

自分たち分として:食料飲料8日分、テント、寝袋、生活用品など。
支援物資として:各種容器、おしるこ300食分、駄菓子8箱、衣類4箱。生活必需品4箱、おもちゃ2箱、絵本と雑誌2箱、水十数リットル、ガスコンロ、プロパンガス16時間分、カセットコンロ3個、カセットボンベ20本、灯油40リットル、ガソリン80リットル、石油ストーブ2個、空のポリタンク4個、工具、作業用具、バトミントンラケット9個シャトル20個、バスケットボール、ボール空気入れ、バット、グローブ、野球ボール3個、お酒10リットル、タバコ12箱など。
支援用道具として:自転車修理道具とパーツ、各種鍋、釜、やかん、ギター、ピアニカ、ハーモニカ、太鼓、紙しばい10話など。

ここで今回のメンバー5人を紹介しておく

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トモちゃん(加藤智美)ナビゲーション&遊戯担当:葉山ライフセービング主宰、ボート免許講師、ダイビング・インストラクター。

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コウタロウ(飯島光太郎)音楽担当:千葉在住フォーク・ミュージシャン 

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ジャスミン(中西和美)情報収集、渉外担当:仙台出身東京在住 舞人、ヒーラー

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ひでさん(齊藤英和)スーパードライバー、物資管理、おしるこ担当:長野在住 ダイビング・インストラクター

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エディ(眞岩栄一)一応隊長、紙しばい担当:マウイ在住 ダイビング・インストラクター、自然ガイド

このメンバーをブレーメンの紙しばい隊と名づけ午後1時前に意気揚々と仙台へ向けて出発した。

スタートしてまもなく、スバル・レガシーと接触事故を起こしてしまった。

出鼻が挫かれ、これでは先が思いやられると落ち込みそうになるがそうは言っていられない。全員気持ちを引き締め、ここからは一切事故を起こさないことを誓い、悪いことは全部これで祓われたと思うことにした。

大泉ジャンクションから外環道路を使い、川口西インターから東北自動車道へ乗り、目的地仙台までは約5時間の走行予定なので夕方には着くだろう。道は所々補修してあり段差があったが快晴の行楽日和。時々ピクニックにでも行くのかと勘違いするほど綺麗な景色が続く。
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福島県を通過するときは原発の放射能漏れが気になったが、それより高速脇の家々の瓦が至る所で落ちていたので広域にわたる地震の強さが実感できた。
いよいよ仙台が近づいて、市内ではガソリンが入れられないと聞いていたので高速を降りる前に満タンにしておいた。

まずジャスミンのご実家へ向かった。彼女の家族の安否を伺うためと現地の情報を正確に知るためだ。仙台市はガスも水道も止まったままで、町中の自動販売機の飲料は売り切れていた。それでも電気は通常通りこうこうと点灯しており東京よりも正常に感じさせた。
彼女のお父さんはたいそう喜んで、僕らを呑み屋に連れて行こうとしたり、家で酒が呑めるようにしたり色々試みてくれたが災害の街ではどれもうまくいかなかった。

何か必要な物資はあるか聞いてみたが「石巻の方が大変だからそっちへもって行ってくれ」と何ひとつ受け取らなかった。それでもしつこく尋ねたら「水を確保するためのポリタンクだけ欲しい」と申し訳なさそうに言われたのでポリタンクをひとつ差し上げた。そう東北人は欲しがらないのだ。

二人の小学生に駄菓子を配り、「紙しばいの練習をさせてくれる?」と尋ねたらとても喜んでくれた。そのとき震度4強の地震が起きた。マンションの8階は大きく揺れ、ちょっとドキドキした。彼らはイライラした口調で「もういい加減止まってくれよ」と愚痴を言っていた。風呂やトイレが満足に使えない状態が一ヶ月近く続いているので当然のことだろう。

子どもたちの夕食(カップめんとおにぎり)が終わるのを待っている間、ボランティアはどんな状況か恐る恐る尋ねてみた、すると案の定「仙台の人はボランティアを良く思っていないよ。なぜならようやくファミレスが開店したと思えば店の中はボランティアの人たちに占有され、コンビにでも大量に買っていってしまう。正直迷惑なんだよ」ここまで言われると返す言葉は何もなく、自分たちの持ってきたカップめんにも手が着けにくかった。

ようやく子どもの食事が終わったので紙しばいを始めた。最初は照れくさく上手に読むことが出来なかったが、だんだんノッてきた。気がつけば彼らは真剣に聞き入っていた。しかし最も驚かされたのは「ななつ星」という話のときお母さんのほうが涙ぐんでいたのだ。

明日の出発は朝7時の予定。その夜ひでさんはバンの見張り番として車で寝ることになり、残りの4人は床に寝袋で寝かせてもらうことにした。災害の不安や生活の不便さは人のぬくもりを求めるものだと知った。皆で寄り添うようにすぐ眠りに着いた。

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 其の四 【ブレーメン紙しばい隊】

朝6時半に起きてコーヒーを飲んだ。そういえば、ひでさんはまだ車の中なので電話をしてみると、彼は「おはようございます」と元気に応えてくれた。
ジャスミンの家族にお礼を言いいよいよ石巻に向かう。
仙台市が最後の補給所なので足りない自分たちの食糧を買いにいったとき、昨日の言葉「ボランティアの人たちが大量に買うので迷惑なんだよ」が頭をよぎる
5人が食べるパン2食分、玉ねぎ、パスタ3食分、それとお茶漬けのもと2袋だけにした。

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いよいよ三陸道高速に入り石巻へ向かう。自衛隊の車が目立つ。一番大きなつり橋に差し掛かったとき橋の欄干が大きくひしゃげているのが見えた。太平洋を平行に走っているのだからそろそろ被災地が見えてもよさそうなのだが一向に見えない。

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河南の出口をでると渉外担当のジャスミンの知り合いで、現地被災者のデラさんが高速出口で待っていてくれた。彼の案内に従い日和山神社(鹿島御子神社)まで付いて行く事にすると踏み切りを渡ったある道を境に

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異常な光景が飛び込んできて車内の全員が言葉を飲み込んだ。

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これはまだ序の口だということを知らなかった。

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一瞬本当の死体かと思い

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鉄骨が刺さり

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トラックが突っ込み

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建物は横倒し

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いよいよ道が狭くなったとき

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デラさんが全員車から降りるように指示した。

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このお墓の横にある建物は津波の第一波、第二波、第三波のしのいだ人が逃げ込んでいた。そこへ火が移り、全員焼け死んだ場所だと教えてくれた。

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この先は海岸線。そこまで殆ど何もなくなっている。

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靴あとの中に成人式のような写真があった。

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水の力というのはとてつもないものだと改めて知らされる

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いろんなものが押し寄せて

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破壊する

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自衛隊の方が捜索を続けられていた。

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この橋の下を船がおもちゃのように流れ込んできて

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旧北上川を遡っていった

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この船が流れてきたとき、そこには人がいたのだ

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このヨットの向こうの中洲にはかろうじて原形をとどめている石ノ森章太郎の石ノ森萬画館があった。

つづく

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 其の五 【ブレーメン紙しばい隊】

凄惨な風景から逃げるようにして、日和山とよばれる標高60mの丘の上を目指す。
そう、3月11日に津波から逃れるため、ここを駆け上がってきた石巻の被災者のように。

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この丘の上はまるで天界から下界を眺めているような不思議な気持ちにさせる場所だった。

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もうじき咲く桜。その脇にあるこの階段を駆け上がって逃げて来たが、力尽きて海に飲まれ亡くなった方が大勢いるという。
さぞかし無念であったろう。

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旧北上川に浮かぶ中州には、傾いた自由の女神や崩れそうな漫画館が見えた。

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日和山神社は地元の人からそう呼ばれているが、本当の名は鹿島御子神社といい、茨城の鹿島と関係がある。
大和民族が東夷(先住民駆逐と開拓)するときに石巻から上陸したことになっている。これは和歌山県新宮市の神武東征の話に類似する。よって地方開拓の祖神として藩主からも尊崇されていた。
ここの御祭神は建御雷之男神(タケミカヅチノカミまたの名を武甕槌命)と鹿嶋天足別命(カシマアマタリワケノミコト)という親子二柱が祀られている。

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奇跡はこの旧友の再会から始まった。ここの窪木宮司のご令嬢、浩枝さんとジャスミンは同級生だったのだ。窪木ファミリーはジャスミンだけでなく見ず知らずの私たちまで神社へ泊めてくれると仰ってくださった。

それだけでなく、浩枝さんのご主人、好文さんも神主さんで宮城県神道青年協議会のメンバーでもあり、石巻NPOボランティア会議を取りまとめていらっしゃるという。彼に紙しばいの案を話したところ、専修大学石巻校5号館3Fで毎日19時から会議が行われているのでボランティア保険に加入し、正式に会議に参加させてもらえることになった。

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社務所の軒先にテントを張らせて頂き、すぐに必要ないものはそこへ置かせていただき、車を悪路でも耐えられるよう軽くすることにした。携行ガソリン80リットルは安全のため倉庫にしまっていただいた。

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そうこうしていると、被災者の方が近寄ってきて「何かもらえるのか?」と尋ねて来たので喜び勇んで、靴下、下着、石油ストーブ、灯油20リットル、赤ちゃん用の服、オムツなどを差し上げた。彼らは本当に感謝し、若いお母さんの方は泣いていた。本当に良いことをしたと満足感がこみ上げた。

そのあとデラさんがポツリと言った「ここに来れる人はまだましな人たちばかりです。本当に物資を必要としている人は牡鹿半島に取り残された人たちなんです。そういう人たちは自分から欲しいとさえ言えないほど疲弊しているんです」

そうか、欲しがる人にやたら物をあげることは決して良いことではなく、本当に必要なところへ物資が届かなくなり、無い成りに調和の取れた彼らの自立を妨げてしまう、秩序を乱す行為なのだとこのとき悟った。

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僕は罪悪感に見舞われながら黙々と自転車修理をすることにした。ものすごい水の力で曲げられたフロントのリムはそう簡単には元通りにならず、一旦スポークを全て緩め、コンクリートに押し付けて曲げを直し、スポークを調整しながら、何とか走れるようにした。下り坂で大事なのは前ブレーキ、それがあまり効かないので下りは自転車を降るよう念を押した。
この自転車の持ち主は「カバンひとつとこの自転車が偶然瓦礫の中から見つかって財産はこれだけ、3日間何も食べてないんだ。でも明日から避難所が決まり朝になればご飯が食えるから今晩は我慢するよ」といった。もちろん僕が食べるはずだったパンを彼にあげたのは言うまでもない。その人にとって本当に必要なものは、相手の懐に入ってその痛みを共有してからでなければ分からないのだと気付かされた瞬間だった。

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鮮やかな夕焼けに心が癒され

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やがて日が沈んで、上弦の月がでた。

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夜の7時前に専修大学へ着き、そこには沢山のボランティアがいた。格闘家の須藤元気さんやガイアシンフォニーの龍村ゆかりさんもおり、そんな中、会議は今日初めて来られた方の自己紹介から始まった。僕は2番目に立って話した。「自分たちは子どものケアをするために、ブレーメンの紙しばい隊という名の下に、各避難所を回って紙しばいと音楽を提供し、しかるべき場所へ支援物資を届け、おしるこ300食の炊き出しを実施するという目的で来ました。あと自転車の修理道具と50台分のパンク修理用パッチを持ってきました」と告げた。

幸運は続いた。子どものケアを担当する現地のグループ、虹色クレヨン(石巻こども避難所クラブ)が数日前に発足したので早速その代表の方からお声が掛かり、さらにピースボートの一部門である自転車修理部隊からもお声が掛かった。
定例報告会は30分間だけで、その後の30分は各部門に分かれて個別会議をする。
子どものケアのミーティングでは、さっそく明日から3箇所の避難所をまわる事が決まった。門脇中学校、渡波小学校、万石浦中学校である。各避難所は千人弱の避難者が居て各場所とも子どもは20人程だということが分かった。
持ち時間は各校とも1時間以内で終了して欲しいと言われ、こういうときはじたばたしないでアドリブに任せるのが一番ということを永年の講習経験で知っていたので、ぶっつけ本番でやってみることにした。。

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しかし夜になってコウタロウがリハーサルをしたいと言い出し、アンパンマンの唄の練習を神社の拝殿の中ですることになった。そこでipadを持っていたトモちゃんがアンパンマンの歌詞をインターネットで調べてくれた。それを歌いながら彼女は「いい歌詞だ」と感動して泣いていた(変わった奴だとは思っていたがここまで・・・)。
日和山神社の窪木さん達から「津波が来て以来、街が静か過ぎて怖くて眠れないから派手に騒いで欲しい」と頼まれ、神聖な場所を汚さぬように騒ぐという難題を二つ返事で引き受けた。

「神様どうかお許しを、明日の朝も生かされて居ますように」そう祈りながら眠りに就いた。

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